

月明かりの中、サビ男の墓がある峡谷まで歩いた。星の明かりも手伝って、そこに辿り着くのは容易だった。そして夢の続きのように、そこには一匹の猿がいた。
猿は相変わらず、なにも見ていないし、何も考えていなかった。ただの看板のようにそこにいた。意識を持たない道先案内人は、闇に浮かぶグランドキャニオンの荘厳さに心打たれているようにも見えた。あの猿は幻じゃない。これは夢の続きでもない。あの猿は、絶対に、何かを伝えようとしているのだ。
少年はそろりそろりと近づいた。岩場で足をとられないように気をつけながら。今度こそ、あの猿を捕まえようと決意した。職人のような手つきで、少年は気配を消して、猿のすぐ後まで手を伸ばした。もう少しで捕まえられる。猿は絶景に目を奪われている。今なら寝ている子猫を捕まえるよりも簡単だ。
「ヨウタ」という声が聞こえ、振り向くと、父親が立っていた。「そんなところで何してるんだ」
猿に目を戻すと、もうすでに崖の向こうに消えようとしているところだった。少年は急いであとを追った。
「危ない!」と父親があわてて駆けつけ、少年の手を握った。「なにしてんだ!死ぬ気か!」
確かにすぐ目の前は断崖絶壁だった。狡猾な猿は深い闇の奥に消えてしまった。父親は息を切らし、顔を真っ赤にし、叱責した。「なにやってんだ、こんなところで」
「猿がいたんだ」とヨウタは真剣に答えた。「ずっと猿が、僕の前にいるんだ。今回こそ捕まえられると思ったんだ」
父親はため息をついて、それから座りやすい岩場を探し、そこに腰掛けた。「お前も隣に座るか」
「うん」と落ち着きを取り戻した少年は素直に従った。ひんやりとした石の感触。夜の冷気がふたりを包む。吐く息はほんの少し白い。父親は何かを考えながら、ひとしきり夜空を眺めていた。
父親は言った。「あのな、猿は追っちゃいけないんだ。わかるか。その猿がどんなやつかは知らないが、猿を追うには準備ってのがいるんだ。体を鍛えなくちゃいけないし、知識だって必要だ。道に迷わないためのコンパスや地図もいる」
「壊れてるのなら持ってるよ」
「壊れてないやつが必要だ。それと武器だっているかもしれない。そりゃそうだろ、猿だって人間には捕まりたくない。必死で逃げるさ。それに一番大事なのは、その猿が、いい猿なのか悪い猿なのか、それを見極める力だ。もしも悪い猿なら、どんなことがあっても追っちゃいけない。悪い猿は、あらゆる手を使って人間をダメにしちまう。準備ができないまま悪い猿を追った人間でこっちに戻ってきたやつはいないんだ。そのくらい危険なんだよ」
「悪い猿に会ったことあるの」
「一度だけある。怖かったよ。今でも怖い」
「その右足に関係ある?」
「そうだな、関係あるが、あくまでもこれはおまけだ。命を取られなかっただけマシさ」
父親は大きく息を吸う。冷たく研ぎすまされた空気が肺を満たす。それからポケットから折り畳まれた手紙を出し、「これ、ありがとうな」と照れながら言った。
「うん」と少年は答える。「お父さん」
「え」
「お父さんは、本物のお父さんなんだよね」
父親はしばらく考えたあとに返事をした。「お前が決めてくれていいよ」
少年は、しばらく黙ったあと、聞きたかったことを聞く。それは本来ならばサビ男に聞きたかったことだ。
「言葉が出てこないんだ。この風景を見て、なんか言いたいんだけど、なんて言っていいかわからないんだ。ねえ、お父さんならなんて伝える」
父親はずいぶんと考えてからこう答えた。「何も言わないかな。言葉ってのは風みたいなもんで、言ったそばからどっかに行っちゃうから。こういうときは何も言わない方が、いつまでも思ってられる」
少年は、ふーん、と不服そうな顔をした。
「ごめん。いいのが思いつかなかったんだ。お父さんって言われて、プレッシャーで」と父親は白状し、頭を掻いた。
少年は面白い動物でも見るように父親をじっと見つめて、だいぶ時間が経ってから小さく笑った。
「そう言えばさ、何しにここまで来たんだ」と父親。
「あ、そうだ。忘れてた。手紙を渡しに来たんだ」
「手紙?手紙を渡しにグランドキャニオンまで?」
「そうだよ」
「で、渡したのか?」
「今から」
そう言って、少年はポケットから手紙を取り出し、崖に向かって放り投げた。白い手紙は暗闇の谷底へとハラハラと風にもてあそばれながら落ちていく。どこかでサビ男の声が聞こえる。ひゅーひゅー。
(おしまい)

